今年7月に開催された、世界最大の格闘ゲームの祭典「EVO 2017」。そこに、アークシステムワークスの2大タイトルが史上初の同時選出を果たした。
その名は『GUILTY GEAR』と『BLAZBLUE』――今では「2D格闘ゲームの代名詞」としてゲーマーの間で知られている人気作たちだ。
だが、その同時選出の裏側に、両タイトルのクリエイターたちの「長い青春の歴史」があったことを知る者は少ない。本記事は、そんな『GUILTY GEAR』と『BLAZBLUE』の誕生に秘められた、男たちの熱いドラマに迫るものだ。
不案内な読者に、両タイトルの概要を駆け足で説明しておこう。
まずは『GUILTY GEAR』。1998年に発売されたその第一作目は、アークシステムワークスの石渡太輔氏の手腕により2D格闘ゲームに新たなムーブメントを起こした。
だが、その後様々な派生バージョン・派生作品が登場するも、2007年11月に発売されたナンバリングタイトル『GUILTY GEAR 2』で状況は一変する。「格闘ゲームとRTSを組み合わせた独自の3Dアクション」というあまりに“尖った”ゲームデザインにより、従来の作品よりも敷居が高くなってしまい――同シリーズは実に7年もの間、沈黙することになる。
一方、そんな折に頭角を現した格闘ゲームこそが、2008年11月稼働の『BLAZBLUE』だ。
同じくアークシステムワークスの森利道氏は、同作を「総合エンターテイメント」と位置付け大胆な方針を展開。フルボイスかつ大ボリュームのストーリーモードの実装や、webラジオ、アニメ化といった幅広いメディアミックスを行い、既存の格闘ゲーマー以外のファンを獲得した。
まさに因縁さえ感じる両者だが――実はそんな『BLAZBLUE』の成功こそが、長きに渡る『GUILTY GEAR』の沈黙を破る契機となったのだ。そして、その裏には青春をともにした二人の男のドラマがあった。
それでは、物語の時を巻き戻そう。両タイトルのプロデューサーの出会いとなった舞台は、20代の若者が集う謎多き会社「ピックパック」。全てはそこで寝泊まりを繰り返す、ゲームに夢見た男たちの青春の日々から始まった―—。
取材、文/クリモトコウダイ
作品で“寡黙に語り合う”二人の男
――今年の「EVO 2017」【※】に『GUILTY GEAR』と『BLAZBLUE』が初めて同時に選出されました。そこで今回、両タイトルを手がけるお二人に話を伺ってみたいと思います。
※EVO 2017
正式名称は「エボリューション・チャンピオンシップ・シリーズ」。1995年にスタートした対戦格闘ゲーム大会。当初は小規模なイベントだったが、今では世界各国から凄腕プレイヤーたちが集う世界最大規模の大会となっている。
森利道氏(以下、森氏):
いやー、初めての対談ですよ。
石渡太輔氏(以下、石渡氏):
えっ、そうだっけ?
森氏:
二人でインタビュー受けるとかはあるんですが、対談は初めてなんですよ。
――そうなんですね。2003年に森さんが入って以来、同じアークシステムワークスに勤めているお二人ですが、普段はどのような話をされるのでしょうか。
森氏:
うーん……相対性理論についてとか?
石渡氏:
一緒に京都旅行にいったときの話ですね。
アインシュタインの「もし自分が光の速さで飛んだら、顔は鏡に映るのだろうか?」という問いについて、モリモリ(森氏のこと)に「どう思う?」って聞いたんだよね。そこから『スタートレック』【※】の話になり、朝までずっと話し込んでました(笑)。
※スタートレック
1966〜1969年にアメリカで放送されていた大人気SFシリーズ、及びその後制作された映画などの同名シリーズの総称。現代でもその人気は非常に高く、2016年にも新作が公開されている。1971年には同作を題材としたコンピュータゲームも開発された。
森氏:
ただ、今はそもそも開発フロアが違うので、基本的には会う機会があまりないんです。だから普段は全然話さないんですよ。
――あれ、そうなんですか……お二人の手がける作品は、アークシステムワークスとしての“統一感”があるので、てっきり普段からゲームづくりに関して意見を交わしているんだと思っていました。
森氏:
実をいうと、お互いが作るゲームに関しても特に語り合ったりしないです。
石渡氏:
そうだね。言葉じゃなくて、作品で語っている感じだよね。
――では、この“統一感”のようなものはどこで生まれているのでしょうか?
森氏:
おそらく、僕がもともと勤めていたピックパック・エアリアル(以下、ピックパック)という会社の環境が影響してるんだと思います。
全ての始まりだった謎の会社・ピックパック
――ピックパック……実はこの取材の準備をしていても、なぜかこれまで表に情報の出ていない、謎の会社だと思っていたんです。『GUILTY GEAR』と『BLAZBLUE』を紐解くうえでキーになる存在なのは間違いないとは思うのですが……まずは、会社自体について教えていただけないでしょうか。
石渡氏:
初代『GUILTY GEAR』【※1】をドリームキャスト【※2】へ移植したのがピックパックだったんです。たしか、モリモリを含めた、アミューズメントメディア総合学院(以下、AMG)【※3】の学生たちで立ち上げた会社だよね。
※2 ドリームキャスト
1998年に セガ・エンタープライゼス(当時)より発売されたゲーム機。dream(夢)をbroadcast(広く伝える)という願いを込めた造語で、「ドリャス」「ドキャ」「ムキャ」「DC」、ロゴマークの渦巻きから「なると」など、様々な愛称で親しまれた。尚、同社は2001年1月に家庭用ゲーム機の製造から撤退している。
※3 アミューズメントメディア総合学院
1993年に設立された、クリエイター養成のための専門学校。ゲーム、CG、アニメ、漫画、声優など、エンターテイメント業界のさまざまな分野に特化した学校で、これまでに業界で活躍する多数の著名人を輩出している。
森氏:
より正確に言うならば、かっこいい会社の立ち上げ理由はなくて、当時AMGの新卒の仲間たちと働いていた会社が真っ黒というか。まあ、なんというか……半年ぐらい給料が払われなくて(笑)。
――それはヤバいですね……。
森氏:
そんな状況だったので、僕らは「もう自分たちの会社を立ち上げて、作りたいものを作ろう」という志を持っていたんです。そこで仲間の一人が「仕事があるぞ!」と言ってきたので、「じゃ立ち上げるか!」といって1998年頃にできたのがピックパックでした。
で、僕はその仕事が始まるまでフリーでローポリ【※】の仕事をこなしつつ、人を集めてチームを作っていたんですが……いつまで経ってもその仕事が始まらなかったんですよ!「騙された…!」と当時は思って焦りましたね(笑)。
※ローポリ
ローポリゴンの略語。少ない数のポリゴンでモデリングされた3DCGのことを指す。
――それは困りましたね……だって給料が払われていなかったとはいえ、前の会社は辞めてるわけですもんね。
森氏:
そうなんですよ。「気心の知れた仲間たちで集まって会社を立ち上げた」と言えば聞こえがいいかもしれませんが、肝心の仕事がないと意味がないですし(笑)。
とにかく仕事がなくて困っていたので、手当たり次第、同級生に連絡していったんです。すると『GUILTY GEAR』のプログラマーでもある安部君の紹介で、アークの社長の木戸岡さんが会ってくれることになったんです。
そこで「うちは忙しすぎて死んでるから、お前らこれをやれ」と渡された案件が、『GUILTY GEAR』のドリームキャスト移植だったんです。どこの馬の骨とも分からない僕らにですよ。もう、あのときは「いきなり仕事くれたー!」って歓喜しました
――なかなかに展開が早いですね(笑)。
森氏:
そのとき、石渡さん的には『GUILTY GEAR 2』を作るか作らないかという話をしていたみたいなんですが、その前に移植しろという話になったらしくて。
――なるほど。その仕事の後は、どうなったんですか?
森氏:
再び木戸岡さんに呼び出されて、「今度はこれをアーケードに移植する」と言われました(笑)。その頃って、丁度サミー(現セガ・インタラクティブ)【※】がアーケードに進出するタイミングで、そこで『GUILTY GEAR』を出さないかという話があったようです。
でも、それって、石渡さんが言い出したと聞いたんですが……。
※サミー
1975年に設立された日本のメーカー。2003年にセガ(当時)と統合し、「セガサミーホールディングス」の子会社となっている。現在ではパチンコ・パチスロメーカーとして知られているが、統合以前はゲーム事業も手がけており、「GUILTY GEAR」シリーズなどを発売していた。
石渡氏:
いやいや、僕はただ「やりたいか?」と聞かれたから「はい」と答えただけですよ(笑)。
森氏:
えええ! 僕らは「石渡がアーケードにしたいと言い出したんだ」と伝えられたので、「マジか」と思ってやったのに。
――少し整理させていただきたいんですが、そのアーケード版って、あの『GUILTY GEAR X』【※】のことですよね……?
※GUILTY GEAR X
2000年に稼働を開始したアーケード向け格闘ゲーム。『GUILTY GEAR』シリーズ2作目にして、初のアーケードタイトルである。当時のアーケード向け2D格闘ゲーム界隈は氷河期と呼ばれており、その中でも人気を集めていた作品はシリーズものばかりだった。 そんな状況下に忽然として登場した『GUILTY GEAR X』は、個性的なビジュアルと能力を持ったキャラクターたち、2Dならではの表現を極めた高解像度なビジュアルとエフェクト、コアゲーマーを刺激するゲームシステム、そして音楽とストーリーが、当時の格闘ゲームプレイヤーたちに受け、アーケード1作目にして一躍人気タイトルに。現行シリーズ(Xrd)の基本骨格となった作品でもある。 本作の登場により、アークシステムワークスは日本屈指の2D格闘ゲームメーカーとして知られるようになる。
石渡氏:
今、考えたらすごいよね。学校あがりで、アーケードで格闘ゲームなんて作ったことのない小僧たちが『GUILTY GEAR X』を作ったんだから。
森氏:
開発当時はまだ石渡さんが22歳で、僕が23歳ぐらいでしたね。メインプログラマーの鈴木君なんて19歳で、開発の途中に成人式行ってましたよ(笑)。
今考えたら驚愕です。でも、99%石渡さんの才能ですよね。
石渡氏:
いや、違うね(笑)。僕の中では4割が鈴木君だよ。すごくロジックの強いプログラマーでして、彼のおかげでアーケード版のバランスが整ったんだと思っています。残り6割を皆で山分けって感じじゃないかな。
二人の出会いと関係性に迫る
――お二人が出会ったのはそのピックパックからなんでしょうか。
石渡氏:
そうですね。僕はAMGを卒業してアークに就職したので、ピックパックに出向するまでは面識ありませんでした。
森氏:
いやいや! 僕の記憶ではもっと前に出会ってます(笑)。専門学校時代に石渡さんが学校に来ていて、先生にソル【※】を見せていたんですよ。
それを見て「すげえ上手い! こいつ殺してえ!」って思ったのが最初ですね。「自分より上手いやつはとりあえず全員抹殺しろ」という教えを受けていたんで。
――二人の記憶の温度差がすごい(笑)。
森氏:
僕なんて道端に落ちてる石ころみたいな扱いだったんですよ……。
石渡氏:
まあ、でもさ、同じ会社で仕事をしたのはアーケード版の制作からだし。
森氏:
いやいや! 仕事も、その前があるんですよ。
石渡氏:
え、まじで!?
森氏:
実はピックパックをやる前に、僕はアークで半年ぐらいバイトしていたんですよ。そのとき石渡さんも社内にいたんです。赤いバンダナによく分かんないジージャンを着ていて「雑誌のインタビューまんまや!」と感動しましたね(笑)。
当時石渡さんは、たまーに来て、たまーに仕事していなくなる存在でした。ずっと「あの人は何をしているんだろう?」と思ってました。
石渡氏:
ううむ……ちょうど『GUILTY GEAR』を作っている最中でバタバタしていたんだと思います(笑)。実はこのゲームって、最初「電撃PlayStation」【※】の特集でその存在が報じられたんですが、そのときはこれっぽっちも制作が始まっていなかったんですよ。
ちょうどその頃の話だったので、僕の出会いの記憶はピックパックができてから(笑)。
※電撃PlayStation
1994年にメディアワークスが創刊したゲーム雑誌。コアなゲーマーをターゲットにしており、他紙はあまり取り上げないゲームを積極的に編成に組み込むことや、読者コーナーが非常に充実していることでも有名。現在はKADOKAWAより月2回のペースで刊行されている。
森氏:
やっぱり、道端に落ちてる石ころだったんだ!
石渡氏:
いやいやいや(笑)。
――もしかして、森さんがアークに行かれたのは石渡さんの影響が大きいんでしょうか。
森氏:
そうなんですよ! ソルを見て、石渡さんに憧れて……それなのに! 半年も同じ場所で働いてたのに!(泣)
石渡氏:
それは嘘でしょ(笑)。
森氏:
……バレちゃいましたね。単純にアルバイトの募集があったからでした(笑)。入ってから「そういえば石渡さんはアークの人だったな」と思い出した感じです。
石渡氏:
僕がAMGの一期生でモリモリが二期生なんですが、当時は、そもそも受け入れ先がそんなに多くなかったんですよね。
感性を決定づけた青春の日々
――ここからは、お二人の作品に“統一感”を与えたという、ピックパックの環境について迫っていきたいです。20代の若者たちが立ち上げた会社と伺いましたが、当時はどんな雰囲気だったのでしょう?
石渡氏:
まず、ピックパックの人間は、基本的に家に帰らないんですよ。みんな寝袋を持っていて、会社で寝泊まりしてましたね(笑)。
森氏:
とにかく家に帰らないやつらのたまり場でしたね。で、やたらと遊ぶのが大好き。晩飯を食べた後は、そこからゲーセンをはしごしていくんです。
――それは、やっぱり格闘ゲームなんですか?
石渡氏:
格闘ゲームは、出たらとりあえず全員で触っていたと思います。『ストリートファイターZERO3』【※1】や『神凰拳』【※2】とか。
※1 ストリートファイターZERO3……1998年にリリース。カプコン制作大人気格闘ゲームシリーズ「ストリートファイター」の「ZERO」シリーズのナンバリング第3作目にあたる。のちに家庭用ハードにも移植されている。
※2 神凰拳……1996年にSNKより発売された3D格ゲー。キャラクターは、世界中の神話に登場する多種多様な神や悪魔がモチーフとなっている。1997年にはセガサターンに移植され、2011年にはWii版が配信された。
森氏:
あとは『ストリートファイターIII 3rd STRIKE』【※1】や『餓狼 MARK OF THE WOLVES』【※2】をひたすらやってましたね。
※1 ストリートファイターIII 3rd STRIKE……1997年に登場した『ストリートファイターIII』の最終バージョンとして、1999年にカプコンからリリースされたアーケードゲーム。シリーズの続編となる『ストリートファイターIV』の登場まで、約9年もの期間が空いたこともあり、熱心なファンによって長くプレイが続けられていた。
※2 餓狼 MARK OF THE WOLVES……略称は「餓狼MOW」。1999年にSNKより発売された2D対戦型格闘ゲーム。1991年に初代が発売された「餓狼伝説」シリーズの一部。ファンたちの根強い支持によって、現在に至るまでさまざまなハードに移植されプレイされ続けている。
石渡氏:
……ただ、アーケードで一番ヤバかったのは、『ダービーオーナーズクラブ』です【※】。
森氏:
あ、その話はダメです! めっちゃ反省してますから、話すのはやめときましょう!
――ぜひ聞かせてください(笑)。
石渡氏:
僕らが初めて触ったカード式のアーケードゲームだったんですけど、これがあまりに面白すぎて、アホみたいに金が飛んでいったんですよ(笑)。
森氏:
それで俺が、石渡さんに金を借りてしまったという……。でも、返さない人もいたけど、俺は返したからね! もう、ザ・自転車操業でした。
石渡氏:
で、ゲーセンで遊び終わったら、銭湯かPCゲームタイムが始まるんです。
――アーケードじゃ飽き足らず、PCゲームも(笑)。
森氏:
『Diablo II』【※1】と『Operation Flashpoint:Cold War Crisis』【※2】はマジでヤバかったですね。
※1 Diablo II
米ブリザード社によるアクションRPG。大ヒット作の『Diablo』(1996年)の続編として、初代に改良を加え、2000年にリリースされた。完成度は非常に高く、現在でも古典的なMORPGとしてプレイされているほど高い評価を得ている。
※2 Operation Flashpoint:Cold War Crisis
チェコのBIS社開発によるWindows用のFPSゲームで、2001年に発売された。銃器の操作や人間の再現度が非常に高く、かつてないほどのリアリティのある戦闘ゲームとして人気を博した。
石渡氏:
『Diablo II』に関しては難易度「ナイトメア」【※】でやってましたね。当時、世界的に人気で「ディアブロ倒産」という言葉まであったんです。あまりにハマってて、「そうならないように気を付けなきゃね」という話をしていたくらいです。
※ナイトメア
『Diablo II』では「ノーマル」「ナイトメア」「ヘル」の3段階のゲーム難易度が用意されている。「ノーマル」でスタートし、ゲームを一通りクリアすることで上位の難易度が開放される仕組み。だが、「ノーマル」でもすでにゲーム難易度は比較的高く、手練れでなければ「ナイトメア」以上のレベルでストーリーを進めるのには困難を極めた。
森氏:
『Diablo II』で仕事をしなくなる現象、ありましたね(笑)。
石渡氏:
そうそう、アークに入社した翌日に僕に拉致られて、ピックパック出向になった新人がいたんですが、そのときたまたま『ウォークラフト』【※】が流行ってたので、彼に与えられるはずのスペックの良いPCを勝手に専用マシーンにしたりしてました(笑)。
※ウォークラフト
米ブリザード社によって発売されたリアルタイム・ストラテジー型のオンラインゲーム。ファンタジーの世界観のもと、人間やドワーフといった様々な種族が魔法を駆使して戦っていく。同型のシリーズとしてはこれまで3作発表され、世界中で空前絶後の大ヒットとなった。MMORPG型の『World of Warcraft(WoW)』も、「登録者数最多のMMORPG」としてギネスブックに記録されている。
――ひどすぎる(笑)。
森氏:
本当ににみんなでなんでも遊んでたんですよ。『Wolfenstein』【※】とかもよくやってましたね。
※Wolfenstein
ここでは『Return to Castle Wolfenstein』が言及されている。id SoftwareのFPSシリーズ。1992年リリースの『Wolfenstein 3D』はFPSの始祖的存在で、3Dダンジョン化したナチスの要塞に主観視点で潜入し、現れる敵を撃ちまくる。森氏が言及している『Return to Castle Wolfenstein』は『Wolfenstein 3D』のリメイク作品。
石渡氏:
そうそう、あと『バトルフィールド1942』【※】も。飛んでる飛行機の屋根に乗ったりしてました。
森氏:
ただ、まれにみんなマイブームがずれてましたよね。石渡さんが『Age of Empires』【※】を一人で黙々とやってたり。
※Age of Empires
1997年にマイクロソフト社が発売したリアルタイムストラテジーゲーム。史実に基づいた石器時代から鉄器時代までの世界を舞台に、漢、エジプト、ギリシアなど合計12の文明をプレイすることができる。
――他に何か印象残っている作品はありますか?
森氏:
ゲームじゃないんですが、石渡さんと二人でレンタルビデオ屋に行って、よくわからないB級ホラー映画を大量に見ましたね。
石渡氏:
定番が「本当にあった呪いのビデオ」【※】で、新作が出るたびに「出たぞー!」ってみんなで騒いでいました。
あとは『VERSUS』【※1】や『シックス・ストリング・サムライ』【※2】とかは、「すげえつまんないのにおもしれえ」って言ってやってましたね(笑)。そしてゲーム以外にもビリヤードとか、いろんなものに手を出していました。
※1 VERSUS
2001年公開の日本映画。北村龍平監督作品。囚人の主人公がゾンビ・ヤクザ・刑事を巻き込んだ血みどろの激闘のさまが描かれるB級アクション。3000万円という低予算で製作されたが、国内外の映画祭で受賞するなど高い評価を得た。ジャン=リュック・ゴダールも本作を気に入ったとして、『アワー・ミュージック』の中で引用している。
※2 シックス・ストリング・サムライ
1998年公開のアメリカ映画。ギターと剣を手に楽園を目指して旅を続ける男のさまを描いたB級SFアクション映画。ロックンロール、チャンバラ、ウエスタンといったさまざまな要素が詰め込まれている。
――ヴェノム【※】もそうやって生まれたんですね。『GUILTY GEAR』の個性的なキャラの存在も、ピックパックの環境の影響を無視できない気がしてきました。……それにしても、話を聞けば聞くほどずっと遊んでいたように見受けられます(笑)。
石渡氏:
もう、遊び終わったら仕事に戻るか寝るかみたいな毎日でしたよ。だから寝るのがみんな遅いんですよ。モリモリとかは寝坊助さんなので、昼の2時ぐらいまで寝てましたし。
森氏:
今考えたら酷いですよね(笑)。
でも、この環境の何が良かったって、みんなで一緒に同じものを見ていたんですよ。会社って今だと、モノを作るときは一緒ですけど、仕事が終わったらバラバラじゃないですか。でも当時の僕らは、29インチのちっこいTVを前にして、アニメや映画を見るときも一緒だったんです。漫画とかも回し読みしていましたしね。
つまり、感性やセンスの共有がなされていたんですね。もちろんすごく閉鎖された環境だったし、臭いがヤバかったりしましたけど(笑)。
ただ、僕らはそれを8年間続けたんです。一番吸収できて一番動けた20代をそこで過ごせたのは大きかったですね。
石渡氏:
僕も本当にそう思います。単純に、楽しかったですしね。
森氏:
あの環境があったからこそ、今の僕があると思います。当時は石渡さんがぐいぐい引っ張って行ってくれていたので、技術の面でも多くの学びがありました。
――感性やセンスの共有がピックパックで行われた結果が、今の『GUILTY GEAR』と『BLAZBLUE』に繋がっているわけですね。
森氏:
そうですね。石渡さんなんか、もうどっちの社員なんだって感じでしたよ。
石渡氏:
アークに戻るたびに知らない社員がいましたからね(笑)。